人が自らの、そして大切なひとの人生の終え方について選択を迫られたとき、どのような答えを出すでしょうか。
とりわけこれは、自身のことにおいてよりも、身近で大切なひとの身に起きた場合に、迷いや苦しみ、後悔の念など、わたしたちが考えるよりもはるかに重い選択となり得ることが考えられます。
冒頭の問いに対するひとつの指針を示すものとして、“尊厳死”および“安楽死”という二つの概念がありますが、これらはそれぞれ、次のように区別されるものだとの意見が大勢を占めてきています。
「尊厳死とは、患者が<不治かつ末期>になったとき、自分の意思で延命治療をやめてもらい、安らかに人間らしい死をとげること。」これは、日本尊厳死協会による“尊厳死”の定義です。
他方、“安楽死”については、「本人の明示的な意思に基づいて致死的薬剤の投与により、直接的に死をもたらす自発的積極的なもの」との見方が、世界でも広く支持されています。
生きている限り永遠の課題とも言える問題に一石を投ずるものとして、イタリア人マルコ・ベロッキオ監督による“尊厳死”をテーマとした作品が、まもなく公開となります。
この作品は、実際に起きたあるイタリア人女性の尊厳死事件がベースとされています。
―交通事故で植物状態となることを余儀なくされた娘の延命措置の停止を求め、カトリックの影響が強いイタリアで、両親が長年裁判で争った。
その結果、訴えは認められたものの、実際に受入可能な病院はなかなか見つからない。やっと見つかったものの、カトリック信者や保守層からの支持を集める時の首相は、娘の両親が勝ち得た判決を覆す根拠となる法案の強行採決を画策する―
わたしたちが、ひとの最期に直面したときに、そこに立ち会う家族、医師そして紛れもなく本人のさまざまな思いが交錯します。
「楽にしてほしい」と願う本人の意思と、その意思を尊重したいと思いながらも、大切なひとを失う怖さ、一縷の望みにかけたい気持ち、また医師である前に患者と向き合う一人の人間としての苦悩など、表わしきれないほどの感情にどう向き合うか。
日本でも当然賛否両論ある尊厳死法制化ですが、その裏には一筋縄ではいかないそれぞれの立場の思惑があり、今回の映画作品の公開を機に、一度は自身のこととして真剣に考えてみたい、そう思える課題です。